通知表、学校によって通信簿・学習のあゆみ・通信表など、呼び方は様々です。
その通知表は、子どもの頃当たり前に受け取っていたという人がほとんどでしょう。
実は、法的に通知表は作成義務がありません。ということもあり、通知表は意味がないのではないかという声も挙がってきています。
実際に通知表をなくした学校もあります。
ここでは、通知表が意味ないと言われる理由についてお話します。
通知表というのは、良し悪しが書かれているものです。
算数の成績が良かったけど、理科はダメだった…なんて、書かれていることを見ては一喜一憂していたと思います。
自分自身の成績と向き合い、今後どうやって成長につなげていくのかの指針にするのはいいのですが、多くの場合は身近な人と比較してしまうものです。
友達、あるいはトップの人と比べて落ち込む人、中には自分よりも成績の悪い人を非難したり。
そうやって、他人と比較するようになると自己肯定感が下がります。人には、必ず自分よりも良いところがありますから。
仮に通知表で自己肯定感が上がっていたとしても、人と比較することで得た自信や自己肯定感なんて、ちょっとしたことで簡単に打ち砕かれます。
そもそも、成績優秀者しか喜べないのだとしたら、意味ないと言われる理由にも納得です。
勉強ができたら優れた人間でしょうか、運動ができたら素晴らしい人間でしょうか。
私はそう思いません。もちろん、できないよりはできた方が生き方の幅が広がります。ですが、素晴らしい人間というのは、勉強や運動だけでは測れません。
通知表にも子どものことを書く欄はありますが、担任が一人で30~40人の子どもを把握するのは非常に難しいです。
通知表があると、勉強ができるかできないか、運動ができるかできないかという限られた視点でしか考えられなくなるのです。
小学生の頃の成績(通知表)では人生に大きく影響することはほとんどありません。
自分の得意分野を見つけて伸ばす、不得意な分野を切り捨てるという意味で、人生が変わった人は確かにいるでしょう。
ですが、「あの時通知表がダメだったから俺の人生が…」とか「通知表の成績が良かったから今の人生がある」と感じている人はほとんどいないでしょう。
そこまで影響力がないのに、上で説明したように悪い影響は割と強く出てしまいます。
通知表が意味ないと言われている反面、親からすると学校でどんな様子なのか、成績はどうなのか分からないという声もあります。
確かに、親は子どもからの話や通知表、それから子どもの態度くらいでしか、学校での様子は分かりません。
ただ、通知表を見たところで大雑把にしか子どもを知ることはできないでしょう。子どもの数ヶ月がたったの1枚で分かる訳がありませんから。
何なら、子どもの様子が記されているのはせいぜい数百文字くらいでしょう。
それくらいでは、その子の人間性なんて間近で見ている親の方がよっぽどわかると思います。
ないよりはあった方が良いくらいの通知表のために、担任の人が何十時間も頭を悩ませるより、子どもと関わる時間を増やしたり、保護者と面談をした方が良いのではないでしょうか。
冒頭で触れた学校では通知表をなくすだけでなく、運動会のシステムも競うものから、自己ベストを出すことを目標にするというシステムにしたそうです。
これまで、運動会では1位のクラスは大喜びするけど、最下位のクラスは冷めたリアクションだったそうです。
ですが、システムを変えてからは、記録を更新することに集中しており、自己ベストを更新したと喜んでいたそうです。ちなみに、全てのクラスが自己ベストを更新したそうです。
タイムの発表も速さの順番ではなく、1組から行ったのだとか。
この話を聞いた時、私はすごく良いシステムを考えたのだと思いました。
人と比べると上には上がいますし、人と比べたところで成長に繋がることはほとんどないからです。今日の自分よりも明日の自分。
そうやって毎日を過ごしていたら、数年後にはきっと何かを極められるでしょう。
このシステムに対して、「頑張ったんだからそれで良いだろう、と考えるようになると思う」という意見もありました。
個人的には、自己ベストを目指すために頑張ることの喜びを知った人が、頑張ったから良いと考えるようになるとは思えません。
きっと、「よし!明日はもう少し成長できるように頑張ろう」となると思います。
社会に出たら、必ず誰かと比較されるようになるものです。
雇う人は人材を厳選しないといけないですし、経営者になったとしても、お客さんや契約先の人達は選ばないといけないですから。
ただ、子どもの頃は自分の良いところ見つけ、そこを伸ばすために頑張って欲しいです。
他人と比較するのではなく、自分を成長させるために頑張り続けたら、きっと素晴らしい人間になれると思います。