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不登校は本当に甘えなのか?不登校の弟を持つ私が考えてみた

不登校 甘え
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知恵袋やなんJなど、一般の人の意見を見てみると、甘えだと考えている人が多いような印象を受けます。

恐らく、多くの人が学校に行きたくないと思いながら、通っていたのかもしれません。

「自分は頑張っていたのに」とか「不登校という選択ができて羨ましい」という気持ちが、不登校の人=甘えていると考えているのでしょう。

私の弟は中学2年生から不登校になりました。

ですが、私は甘えと感じたことも考えたこともありません。そもそも、甘えかどうかすら考えていませんでした。

それは私自身の考え方、弟の性格にも深く関係しているのかもしれません。

ここでは、そのことも踏まえて、本当に不登校は甘えなのかについてお話します。

不登校と甘えをイコールで結びつけるのは短絡的過ぎる

不登校を甘えだと決めつけられない理由は3つあります。

①自由に生きる権利があるから
②感じ方・考え方は人それぞれだから
③学校へ通うのが甘えじゃないとは言い切れないから

1つずつ解説します。

自由に生きる権利があるから

自由に生きる

権利という言葉が出てきたら、「義務教育なんだから学校に行かなきゃ」なんて言う人がいますが、これについては間違えて認識している人が多いように思います。

というのも、義務というのはしなくてはならないこと、あるいはしてはならないことだという意味があるからです。

ですが、義務教育は子どもに義務を課している訳ではなく、親や社会に課しているのです。

要するに、親・保護者、社会は子どもを学校に通わせるために努めなければならないということであり、子ども自身に義務はありません。

元々は、家の手伝いや親の都合で学校に行かせないのを防ぐためにできた法律です。

なので、子ども自身の意思で「学校に行かない」を選択するのは法律上認められているということです。

また、親には子どもを学校に行かせる義務はあるけど、不登校などの理由があるときは無理に通わせなくても良いのです。

通わないのに通っていない=甘えという人もいますが、そうではありません。子どもからすると、学校に通いたくないと思ったら通わなくても良い、つまり自由に生きる権利があるのです。

本を読みたい人は本を読む、運動をしたい人は運動をする、やりたくない人はやらないという選択をする。

本来、ただそれだけの話なのです。

学校に行かないを選んだ私の弟

一般的に不登校と言うと、嫌なことがあったというパターンが多いです。なので、私の弟が不登校になったというと、そういうのを連想してしまうかもしれません。

ですが、私の弟の場合いわゆる不良になることで不登校になってしまいました。

中学2年生から学校へ行かなくなり、その時くらいから私自身も弟と距離できてしまっていました。

当の本人は私に対してどう思っていたのかはわかりませんが、私は弟に対して特に関心がなく、家にいてもほとんど会話もしない状態でした。

仲が悪い訳ではありません。どちらかと言うと少し仲が良いくらいでした。会話をしなくなった理由はいくつかありますが、大きな理由はそもそも家で会うことがなかったからです。

私も学校、習い事と家にいることも少なかったですし、弟は弟で夜中に遊び歩いているため、接点がほとんどありませんでした。

私はいわゆる真面目タイプで、恐らく当時の私を知る人からすると悪いことはできない人間だと答えるでしょう。

一方、弟は私とは正反対のタイプで、小さな頃からやんちゃしていて、中2になってからは不良として色々なところで悪さをしていたそうです。

大きい事件とかは起こしていなかったみたいですが、少年院に入る寸前だったという話は聞きました。

それでも、私自身は「そうなんだ~」くらいのほほんと構えていて、羨ましいとか甘えていると思ったことは一度もありませんでした。

今思えば、私は私で自分の人生を一生懸命生きていたし、楽しんでいたからそう思えたんだと思います。

もし、学校が嫌だとか何か大きな壁にぶつかっていたのなら、目の前で好き勝手に生きている弟に対して、負の感情を抱いていたでしょう。

このことから私は、甘えとか言っている人は自分も同じ道を歩みたかったのではないかと思っています。

そして、甘えかどうかなんて、他人はおろか本人すらも分かっていないのではないかと。

感じ方・考え方は人それぞれだから

法的に問題がないと言っても、「学校に通うのが辛くなって行かなくなった人は甘えでしょ!」「親が甘やかすからだ!」などと言う人は出てきます。

精神的な甘えということですね。

これに関しても、甘えと判断するのは早いのではないかと思います。というのも、人によって感じ方や考え方は違うからです。

学校に通って過ごすのは普通だと思う人もいれば、楽しいと思う人もいて、辛いと思う人もいるのです。

誰だって、苦手なものをさせられ続けるのは苦痛です。

それを言うと、今度は「俺(私)は嫌なことも苦手なことも頑張ってきた」と言う人が出てきます。

ただ、辛いと感じるポイント、頑張れる限界値は人それぞれ違うものです。精神的なものは数値化できず、分かりにくいためかそれを理解していない人が本当に多いです。

簡単に言うと、「自分もできたから他人もできるだろう。できない人は甘えているからだ」と、決めつけてしまうんです。

身体能力や勉強に置き換えて考えてみましょう。

100m走で8秒切らないと甘えなのでしょうか?テストで毎回80点以上取れない人は甘えなのでしょうか。

もちろん、全くないとは思いませんが、ただ能力というか得意不得意が違うだけです。

テストで毎回100点取れる人でも、100m走が早いとは限りません。その逆もあります。

集団行動が苦手な人もいますし、勉強が苦手で授業が苦痛に感じる人もいます。そして、その程度は人それぞれで、努力できる能力も全然違うのです。

本人が限界まで頑張って、疲れてしまったことは甘えではないと個人的には思います。

学校へ通うのが甘えじゃないとは言い切れないから

逆に考えてみましょう。

不登校が甘えなら、学校に行っていることは甘えではないということになりますよね。

でも、それがおかしいということは分かると思います。

学校に通っていてもダラダラ授業を受けていたり、面倒くさいからと最小限の動きしかしなかったり、家に帰ってからもただダラダラ過ごしたり。

それが甘えではなくて、学校に行くのが辛い、こんな風に生きていきたいと思って行動をする人の方は甘えだと言われるというのは、なんだか不自然な感じがします。

不登校が甘えだって?なんJで言われていることは偏りすぎ
なんJを見てみると、不登校は甘えだという意見をたくさん見ます。ですが、それは一方的な意見でしかありません。ここでは、その理由、今後どうしたら良いのかについてお話します。

甘えかどうかの境界線

境界線

致命的に苦手な部分、精神的な忍耐力、考え方や価値観などは個人差があります。

あらゆる要素が絡むので、どこから甘えでどこからが甘えじゃないのかについては、こうだ!と判断することはできません。

なので、これから私が言う甘えの境界線については、あくまで一つの考え方として捉えてください。

自覚しているか

私が生きてきて、色々なことを見聞きし、経験したうえで感じたのは自覚しているかどうかが甘えに繋がっているということ。

上では、弟が不登校だった頃、甘えていると感じたことがないと言いましたが、それは私自身が甘えていたからかもしれません。

大人になって、自分で生活をするようになってから、自覚があるかどうかで生き方が全然違うと思ったからです。

一人前になったと思っていましたが、いざ一人暮らしを始めてみると、親に守られていたんだなということが分かりました。

それだけでなく、仕事においても私は色々な部分で甘えていたことが分かりました。

それまでは、私が仕事でミスをしたり遅かったりしても、誰かがフォローしてくれるだろうと考えていて、そこまで責任を感じていませんでした。

その結果、上司に負担をかけてしまったのです。でも、それすらも自覚していませんでした。

自分が甘えていたと自覚したのは、上司から注意を受けてからです。

そして、その上司は言ってくれました。負担をかけていると自覚さえしていればいいと。

言われた当初は、「そんなことで?」と思っていましたが、自覚し始めてから気が付きました。自分の言動が変わっていくことに。

例えば、同じように仕事が遅くなってしまったり、ミスをしてしまったとしても、フォローを他の人に任せるのではなく、できるだけ自分で取り戻そうと頑張るようになりました。

それだけでなく、フォローをしてくれた人に対して感謝の気持ちを感じるようになり、その気持ちをちゃんと伝えるようになりました。

この時、甘えているのと、甘えていないことの違いは、甘えていることを自覚しているかどうかだと思ったのです。

自覚していれば言動が変わる

私の弟は、中2から不登校になり、18歳くらいまで遊び歩いていました。時々アルバイトもしていましたが、ほとんど1ヶ月も続かずに辞めていました。

この時、親に養われていると自覚をもって生活していたら、もしかしたら、もっと責任感を持って仕事をしていたのかもしれません。そうでなくても、親に感謝しながら生きていたはずです。

お金という面で親に返せないにしても、親を精神的に支えたり、手伝いをしたりと、自分なりにできることを頑張ったと思います。

小さなことでも自分なりに頑張れればOK

甘えとか言われると、一般的な価値観を基準にしがちです。

ですが、車イスの人が階段を登るために人の手を借りるのは甘えですか?私は違うと思います。

自分にできること、例えば感謝の気持ちを伝えたり、ジュースを奢るなど自分にできることを返そうとする人は、甘えているとは思わないはずです。

不登校でひきこもりの人は、自分にはできることはないと思っているかもしれません。ですが、それは自分にとって難しいというだけで、できることは必ずあります。

感謝の気持ちを伝える、掃除機をかける、なんなら挨拶をするとか、小さなことでも行動を変えることができたなら、あなたの1ヶ月後、1年後が大きく変わります。

行動を変えなかったとしても、自覚さえしていれば感謝の気持ちが芽生えるはず。「それだけじゃ…」と思うのではなく、自分なりに頑張ったことを感じて、自分を認めることが大事だと思います。

まとめ

甘えかどうかは人によって意見が変わります。

私は自覚しているかどうかが基準だと思っていますが、他の人は「努力しているかどうか」だと答えるかもしれませんし、「そもそも甘えなんてない」と答えるかもしれません。

私が伝えたいのは、あなたが生きやすい考え方・価値観に触れて、幸せを掴んで欲しいということです。

こうやって生きるべきという考え方は、ただ自分を追い詰めるだけです。

自分なりの答え、哲学を探して精神的に楽に生きていく方法を模索してみてください。

 

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